昭和49年09月06日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
しっかり信心の帯をせよと。毎日朝参りが出来て、これも矢張りしっかり信心が出きておる訳です。けれどもそれだけではならん。充実した信心生活がなされておらなければ出来ないと思う。しっかり信心の帯をせよと言う事は、充実した信心生活をしておけと、しなければならんと言う事だと思います。例えばここでは腹を立てなと、こう言っておられます。もうお前は泥棒だとか、乞食だとかと思い、いわば一番腹の立つような事を、という意味だと思うんです。
誰しも泥棒だとか、乞食だとかと言う事じゃなくて、まぁいわばムカッとする様なとかね、腹が立つと言う様な事柄は、決して泥棒とか乞食とかと言われた時だけの事じゃありませんもんね。そんな事は滅多にある事じゃありませんけれども、やっぱり日々の内に、何とはなしにカーッと来たとか。そのムカッとしたとか。今日ばっかりは腹ん立ってというような、事柄に出会いますけれども。だからなぜ腹を立てなと。腹を立ててはおかげを受けられんのです。
昨日は壮年部会でしたから、久留米の石井さんが、そんな事をまぁ石井さんの信心は大体、とにかく腹を立てては馬鹿らしかと言う事を、本当に哲学した人だと思う位に徹底しておられますですね。こげん馬鹿らしい事はなか、腹を立てたら絶対馬鹿らしか。もうおかげがそこまで来とったっちゃ、おかげはそこから、スーッと抜けてしまう。だから、腹は絶対立てんともう馬鹿らしい。まあおかげを頂くと言う事であったらです、もう本当にそうだと思うですね。だからそれでおかげを受けるです。
ところが最近思いますことは、人類愛と言うこと。それは今まで自分の親戚とか、血の繋がった者の上には、そういう思いを強くしたけれども。赤の他人の誰彼の上にそういう思いをした事がないけれどもです。最近合楽示現活動に参画させて頂いておる今日です。思えば思うほど、いわばこれは人類愛の上に立たなければ、この運動に参画する事は出来ないという意味の事を言ってます。
ですから今まで例えば、腹を立てては馬鹿らしかという生き方からです。腹を立てるような事を言うた人は、その人の事でも祈らなければおられない。自分の人類愛ならその人類愛という愛情を持って、進まなければおられないものを、最近は分からせて頂きよるという意味の事を言ってます。合楽示現活動というのはそういう大きな愛。言うなら神心。小愛を捨てて大愛に生きると言った様な信心が身について来なければです。
本当の意味での私は、合楽示現活動と言う事にはなって来ないと思うですね。自分の事と、いや人の事とは思われないという訳です。様々な難儀な姿を見た時にです。人ごととは思われない。だからこの58節は例えば本当に、どういう最悪の場合に立っても腹を立てない。それは神様がちゃんと見てござるから。その為にしっかり信心の帯をせよと、こう言う事である。ただしっかり信心の帯をさせて頂くと言う事は、私は充実した信心生活だと思うです。
いつ不意打ちに腹の立つ様な事が起こっても、それをどっこいと言う様な受け方だけではなくて、それを柔らかく受けて。腹の立つ様な事をしたり、言うたりする人の上にでも、その自分の神心を向こうに伝えて行きたい、また伝えに行くと言った様な心の事ですから。勿論、そこに争いなどの起こるはずもありません。だから言うなら今日からそげな風にしようという事で出来る事ではない。矢張りいつも充実した心の状態というものがなからなきゃならない。
それには矢張り御教えというかね。本当に天地の親神様の御恩徳の中に生かされて生きておるという喜びを、心に感じての生活でなからなきゃならない。そこでです私共は、信心が充実する事のために、自分の周辺のことに対する考え方、頂き方というものを変えて行かなければならない。たとえて言うと一つのものがある。千円の物と百円の物と、一円の物がある。千円の物は大事にする、百円の物は少しは大事にする、一円の物はもう大変お粗末にする。
もうタダの物なんかは、いっちょん大事とは思わないと言った様な生き方では、充実した信心生活と言えない訳ですね。千円の物であろうが一円の物であろうが。それは只の物であろうがです。例えて言うなら塩なら塩の様な食料品なんかは、高い物ではありません安い物です。けれども本当言うたら、塩なしには生きられないのが私共です。ですからその一摘まみの塩でも大切にしなければおられない。さぁお水なんかは言うならタダで。今電気代を払わんならんから、タダと言う訳でもないでしょうけれどもです。
言うなら川の水でも汲んで来りゃタダですから。タダの物だから粗末にする。よく温泉なんかに参りますとね、お湯はもうどんどん出っぱなし出てますから。家では湯桶半分というぐらいにして始末して、信心で行きよるのですけども。温泉に行ったらもう使わん分が損の様にしてがつがつ使う。そう言う事では、神様を取り外しておるのと同じ事ですからね。だから充実した信心というか、そういう信心を身につけるために、本当の物の価値と言うもの、値打ちというものを分からせて頂いて。
その値打ちを持ってそれを頂くとか、扱う事にならなければいけないと思うです。これは、千円もする分だから大事にするとか、これはもう安か一円位のじゃけん、もう捨てたっちゃ良かと言った様な事ではなくてね。そういう例えば生き方。そういう中からいつも神様を心の中に頂いておれれる充実感と言うか、充実した信心生活というのは、本当に有り難い、有り難いという生活でしょうけれども。
そういう例えばタダの物であろうが、一円の物であろうが、その中に押し頂く心と言った様な心が、段々信心の内容になって来る時です。神様がいつも自分の心の中にござるからです、私は咄嗟に切り込まれてもです。それを有り難いで受けて行く事が出来るのじゃないかという風に思います。私はだから、石井さんの腹立てちゃ馬鹿らしい。ここまでぐらいは、いっちょ早く分かると良いですね。腹を立てたらおかげにならん。腹を立てる、もうこげん馬鹿らしい事はない。
そこが分かってです。最近合楽で言われる示現活動に参画すると言った様な。それこそ、地球上に一人でも多くの人が、生き残らせて頂く事のためにですから、大変な事なんです。人が一人生き残ると言う事なんです。ですから一人でも多くの人に真の道を教え、信心の道を教え。有り難い信心生活をさせてあげると言う事がです、いわゆる示現活動の目的なのですから。それには矢張り私共がね、そういう一つの人類愛というものが感じられるようなおかげを頂かなければならない。
それには私共が充実した信心生活をさせて貰わなければならない。そこから有り難いという神心も起きて来るし湧いても来る。その心で活動に参画させて貰うと言う様な事になるのです。昨日も申しましたが、今度の東京の三菱重工のが、昨日また一人増えました。昨日東京から手紙を頂きました。嫁のお里が銀座でお寿司屋さんをなさっておられます。所がそこの三菱重工という丁度お昼ですから、必ず寿司の注文があるんだそうです。所がその日に限ってですね。
隣の三菱商事の方からは注文があったけど、三菱重工の方から注文がなかったそうです。それで隣の三菱重工の方へ寿司を運んだ途端に爆発した。丁度お昼だった。小僧さんが、もうそれこそ真っ青になって帰って来たと言う事です。本当におかげを頂いてという、お礼の手紙が参りました。だからそういう合楽に関係のある方達で、無事故の人達が6人じゃったから、7人になった訳です。そういう例えばお互い色んな中に、日々おかげを頂かせてもらっておる。
合楽に御神縁を頂いておるというだけでです。小僧さん辺りが信心する訳ではないけれども。最近その手紙の中に、私の嫁の兄になります。丁度この夏の御大祭に一家中でお参りをして来ておりました。私は手紙の中で初めて知りました事ですけれども。お説教をテープに入れて帰るという人は多いですけれどもね。御大祭の時の大祓い奏上を初めから最後までずうっとテープに入れて帰ったそうです。あれは一人ジーッとこうそれこそ何百人の者がね、一生懸命に、大祓いを奏上させて頂いております。
あの中にジーッと目をつぶっとると、沢山の人の喜びの声をそこに聞いておる様な感じが致しますね。沢山の人が大祓いを奏上させて頂いておる。それをテープに収めて行ってです。この頃は毎晩主人が、そのテープに合わせて大祓いの稽古をさせてもろうて、一家中が御祈念をさせて頂いておると言うて来とります。私は御祈念と言う事はね、言うならば、神様と交流をする為の、これは一つの手段だと思うですね。
御祈念しかも沢山の人が、有り難い勿体無いの雰囲気の中で、大祓いを奏上させて頂いておるのを、ジッと目をつぶっておるだけでも有り難うなる。それに唱和するように自分も大祓いを、それに合わせて上げておるという。だから朝の御祈念の、皆さんが、あれが神様との交流する、言うなら信心を充実させて頂く、第一段階だと思いますね。御祈念というのは。同時にです、私は御祈念というかね。
いわゆる御祈念をすると、神様を拝むと言う事はです、ジッと自分の心を神様へ向けて、有り難くならせてもらおう、有り難くならせてもらおうというような心の状態ですから、これはもう確かに心の体操だと思いますね。肉体も活動する事によって、体が健全のおかげが頂かれるように。矢張り心もそういう運動が大事なのです。いわば御祈念というのは心の体操です。また御祈念というのは神様と交流する一つの手段でもあるのです。神様と私共の前に一つの道が開けて来る。
そのルートを通っておかげというものは流れて来るんだ。そういう例えば心の状態をです。また次の言うならば、今日も決して、腹どん立てるような事はあっちゃならないぞと。いやそれどころではない自分の心の中に一つの大きな人類愛が育って来てです。腹の立つような事、ムカッとしたような事を、そういうその相手の事すらも祈らなければおられない、示現活動に導かなければおられないと言う様な、私はそういう人間愛を高めて行くという事。そういう生き方がです、私は充実した生き方だと、こう思います。
充実した生き方。そこからいつ切り込まれても、それを有り難い勿体無い。それこそ大きな心で豊かに受ける事が出来る。それだけでもおかげを受ける。だけではないそれから、もう一つ前進してです。その相手の事を祈らせて頂けるほどしの豊かな心。そういう心がです。示現活動に参画する根本の精神だと思います。人の難儀を見ておってです、人の難儀とは思われない。先日からも申しましたように、可愛い子供が誘拐されたり何かする。はぁもう本当にどげな人間でんおるなと。
先日私はそれ実感した事ですけれども、孫の寝顔を見とってからです。こういう可愛ゆうしてたまらんごたるとが、もし人にさらわれて、傷つけられたり、最悪の場合は殺されたり。しかも、何日も何日も、母親も父親もおらない、何処にか連れて行かれるて、どんなに寂しい悲しい事であろうかと。もう例えば新聞紙上で、そう言う様な記事を見た時、はぁ家の子でなかったから良かったというだけではなくてです。もう人事とは思われないという心が、私は神心だとこの頃から申しましたように。
そういう神心を持たなければ、示現活動に参画する事は出来ないと思うです。今日は、例えば示現活動に参画させて頂く事のためにです。先ずです私共がちょっとした事にどん、プリプリ腹かき寄る様な事では、人はついちゃこない。どころかそれはむしろ祈らせてもらうと言う様な豊かな心を、一つ愈々作って行く。だからおかげはそこに限りなく約束される訳ですけれども。
その心もです私は日々が充実した、まず朝の御祈念に始ってです、神様との交流を感じる。いわゆる心の体操を十分に、自由自在に自分の心が働かせられる様な稽古をさせて頂いて。しかも、ういう心を持ってです、物の値打ち物の価値と言った様なものを、本気で分からせてもろうて。タダの物でも例えばお水ならお水なしには人間は生きて行かれない。だからタダだから、粗末にすると言った様な事ではなくてです、タダの物であろうが、千円の物であろうがです。
同じ思いで押し頂くような心を習得させて貰うと言う様な生き方をです。私は本当の意味においての信心の稽古だと思うです。そういう充実した心の上に現れて来る様々な問題。それこそ、泥棒と言われても、乞食じゃと言われても腹を立てるな。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよと仰る。しっかり信心の帯をすると言う事は、信心のそうした充実を計らせて頂く。充実した信心生活が出来ておると言う事が、真の帯を信心の帯をする事になるのじゃないかと思います。充実した信心生活。
そこから勿論有り難い心が頂ける。もうそれこそ腹を立てては馬鹿らしいという、一つのこれはおかげを頂く為の哲学です。これはもう絶対なものです。本気でする事になって、生神金光大神のお取次ぎを頂いて、腹を立てんで済む様に成ったというだけ、それだけでも絶対おかげを頂かれます。けれどもそれだけではいけないというのが、今の合楽の信心です。それでは腹を立てんで済むと言う事だけですから、まあ極楽です。だからその極楽をもう一つ向こうの合楽に現すと言う事。
神様も喜んで下さる私共も喜べれる世界に自分の心が進んで行く。それを合楽では示現活動に参画すると言う事に、日々皆さんに聞いて頂いておる訳であります。どうぞそこが分かっておって腹を立てると言った様な事のない。それではもう愈々詰らんです。本当に馬鹿らしいですだから馬鹿らしいだけの言うなら打算的な腹を立てんというのじゃなくてです、神心を持って腹を立てんで済む、腹を立てなと仰るのですから。腹を立てんで済む私共になる稽古をさせて貰う。為には愈々充実した信心生活を送りたいと思うですね。
どうぞ。